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■花束 [私の昭和30年代]

■花束

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

その頃の僕といえばもの凄く引っ込み思案で、すごい恥ずかしがり屋でした。勿論今でもそうなんだけど当時は筋金入りだったのです。
ある登校時の朝、母に「先生に渡しなさい」と綺麗な花束を渡されました。こういうのが本当に苦手なのです。だって普段と違う物を持っていると目立つ、それが花束だから余計に目立つ、僕は目立ちたくない、なぜなら恥ずかしいからです。それも花だから余計に持って行きたくない。花は男が持つようなものじゃないと変なプライドがありました。
嫌がる僕に母は強引に僕に花束を渡しました。
学校まで徒歩で10分もかからないのに、その日は花を持っているせいで余計にみんなの目が気になります。クラスの子に合わないようにとドキドキしていましたが、クラスの子に合わないはずもなく、女子に「綺麗ね」などと言われると、なんだか恥ずかしさが増すってものです。とにかく嫌々持って行きました。途中で花を引きずったりしつつ、花を散らしつつ、学校へ向かったのでした。
とにかく先生に渡すことさえ気恥ずかしい。男が花を持ってカッコいいはずないでしょ!もう恥ずかしいじゃないかと思いつつ「お母さんが先生に渡せって」と、そそくさと先生に渡して、ダーッと朝礼に向かいました。
こういう普通の子には何ともないことが、どうにも嫌いで勇気が必要な僕だったのです。
朝礼が終わり教室に戻ると、僕の持って来た花は綺麗に花瓶に活けられて教壇に置かれていました。先生はちゃんとクラスのみんなに「これは山田くんが持って来てくれました」と説明するから余計に恥ずかしい。
「ええっ、余計なこと言わなくても」と僕は思ったのですが、クラスのみんなは拍手してくれました。みんなの暖かい拍手に「あ、なんか良いことしたのかな、僕って」と思うと、花を引きずりつつ嫌々持って来たのはちょっと失敗したなと思いました。なんだか気恥ずかしいという感じはあったけど、みんなに喜ばれるっていいなぁと心の中では思っていました。
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■初めてのカメラ [私の昭和30年代]

■初めてのカメラ

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

初めてカメラを買って貰ったのは鎌倉への遠足の日でした。その日は起きてからすぐに父から真新しいカメラを渡されました。前から欲しかった自分用のカメラです。それだけでなんだかもの凄く嬉しかった。
当時の事とて勿論デジカメなんか無いし、カラーフィルムもなくモノクロフィルムでした。当時パトローネというケースの中にフィルムが入っていて、フィルムをカメラに装填するのに暗室を使わないですむという画期的なものでした。買って貰ったのはペトリ2.8という当時の新型カメラで、これに36枚撮りのフィルムを入れてくれました。
今ではピントは自動で合いますが、お分かりかと思いますが、当時のカメラは自分の目で見てピントを合わせるのです。露出も自動ではなく一覧表があって、晴れはf11とか、曇りはf8とか、極めて大雑把でした。
カメラを手にしてすぐに外に出て父に使い方を教わりました。難しいのはピント合わせ位で、あとはしっかりしたカメラの構え方を教わり、ドキドキしつつ初めてシャッターを切りました。初めての記念すべき一枚目は父の姿でした。
このカメラを持って学校に行くと、なんとMちゃんがまったく同じカメラを持っていました。鎌倉へ向かう列車の車内でお互いを取り合ったのが2枚目の写真でした。
こうしてカメラを持ちはじめて、小学校時代の遠足には必ず持って行き、クラス仲間を卒業までずっと撮り続けました。カメラが趣味になったのはこれからだとう思います。
出来上がった写真を大きな模造紙に貼り付けてクラスに展示したところ、買いたいという子が何人か現れたので実費で注文を取るようになりました。先生はいつもひととおり買ってくださいました。
僕の撮った写真はそうとうの枚数になったのですが、自分の手元にはもう数えるほどしか残っていません。
最近になってネガを取り出してみたら、なんとフィルムがすっかりダメになっていました。
ちょっと保存方法が悪かったのとフィルムの薬品が残っていたらしいのです。なんとも残念なことです。
ですから、今まで僕が撮った写真を買ってお持ちの方は、それしかありませんので大事にしてくださいね。
そういえば映子ちゃんの写真はよく男子に売れていました。
僕は4年生の時に初めてA子ちゃんと席が同じになったとき、クラスの男子から「いいなぁ」とうらやましがられたのですが、超鈍い僕はそれがなんのことだかわかりませんでした。僕ってそうとう奥手だったのでしょうか。

ペトリ2.8 は1958年に栗林写真工業より発売。このカメラの特徴はなんと言ってもファインダーの窓の緑色で「グリーンオマテック」と呼ばれていました。発売当時価格は14800円。何とも高価です。

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■絵にまつわるトラウマ [私の昭和30年代]

■絵にまつわるトラウマ

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

僕は絵にはかなりコンプレックスを持っていて、絵が下手なことをいつも気にしていました。
これはきっとあのトラウマのせいだと思います。

上級生になって図工の時間にミロのビーナスの石膏像のデッサンを描く時間がありました。この日はなんだか集中力もあって結構似ている感じに描けていました。描いている途中でクラスの子が覗いて「似てる」とか「すごい」とか言ってくれます。なんだか恥ずかしいが嬉しくもありました。「これを使ったら」と絵を習っている子から木炭を渡されたのですが、これには困まりました。だって木炭なんか使ったことなかったので、使い方がわからなかったからです。なんとかお断りして鉛筆のみで仕上げました。

ここで件のトラウマの話をしようと思います。これは忘れもしない幼稚園の時のことでした。父兄参観の日に園児全員でお絵かきをすることになっていました。その日は僕の母も来ていて、どのお母さんよりも綺麗に見えるので目立っていました。
園長先生は教壇にチューリップの咲いた鉢を置き「今日はみなさんでチューリップのお花をかきましょう」と言いました。
そして園児一同は一斉にみな思い思いにクレヨンを持って画用紙にチューリップを書き始めました。
しかし僕はというと、花は女子の描くもので、男の僕は描きたくないという変なプライドがあったので、輪投げのセットを描いたのです。輪投げにちゃんと綺麗に三色の輪がかかっている図です。自分で良く描けていると思いました。褒めてもらえると思っていました。
「さあできましたか」という園長先生の声に、みんなは様々なチューリップの花を描いた画用紙を元気よく掲げました。
だがしかし、チューリップ以外のものを描いたのは僕だけでした。それを見た園長先生はビックリした表情を向けます。他の先生も、父兄の方々も戸惑うような表情になるのがわかりました。
まわりの空気をいち早く感じた母が僕の席まで早足でやって来て、いきなり僕の描いた輪投げの軸を緑色に塗り、土台を鉢に書き替えて、さらに投げ輪をうまく葉っぱに書き替え、花を描き加えてしまったのです。静寂のなかで輪投げのセットは、母によりものすごい早さでチューリップの花と鉢になってしまいました…描き終えると母はクレヨンをドンとばかりに置いて、颯爽と自分のもといた場所に帰って行きました。このときの場の空気はとても忘れられないものとなりました。
僕としては、子供心に自分の好きな絵をなぜ描いてはいけないのかという疑問と、それを直されてしまったというショックだけが残っていました。
母も大勢の父兄の手前すごく世間体が悪く、恥ずかしかったので飛び出してきたのでしょう。

ミロのビーナスに話を戻しますが、この絵がクラスのみんなから褒められたから、初めて絵を描くことが楽しいと思いました。やはり褒められるのが上達の一番の道なんだろうと思うのです。先生に褒められるのは特に嬉しかったことを覚えています。みんなありがとう。

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■僕は唄うのが大嫌い [私の昭和30年代]

■僕は唄うのが大嫌い

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

あまりの恥ずかしさに、はっきりといつだったかのかは憶えていないのですが、多分4年生位の時だったと思います。
音楽に時間に指定された唄を歌うというテストがありました。
それを翌日に控えて僕はもの凄く緊張していたのです。
クラスのみんなの前で歌うこと自体すごく恥ずかしいことだったし、だいいち僕はとんでもなく唄が下手だと知っていたので余計に緊張していたのでした。
家に帰って、なんとか上手く歌える方法はないものかと思案するのですが、そんなものある筈もありません。
思案に疲れ果てて、なんとなくラジオをつけたらオペラをやっていました。オペラの堂々とした歌いぷりに、この時僕は『おおっ!!』と思いました。
これを真似すれば絶対大丈夫だと勝手に確信して、あとはいつものように遊びました。
そしてテストの当日。僕は名前の順番だと後の方になるので、だんだん緊張が増すのが普通なのですが、不思議とこの日ばかりは、あのオペラの感じで歌えば大丈夫という、変な自信があったので平気だったのです。
そして僕の番になりました。
確か歌は「チリリン自転車の唄」とかいったと思いますが、歌い始めの「チリリン自転車野山を走る~♪」をオペラ調に朗々と歌いました。
と、途端に先生が演奏を止め、クラス中が凍り付きました。
シーンとした静寂の中で僕は『ナニカオカシナコトヲシタノカナ?』とのろのろと思っていたのです。
やがて我に返ったクラスのみんなは、いきなりの大爆笑で、先生すらも大笑いしているではありませんか!
僕だけが取り残されていました。僕は本当に真面目に歌ったのになんで笑われるのと思いもし、あまりの恥ずかしさに子供なりに打ちのめされたのでした。
こうして僕は歌うことが大嫌いになりました。僕は音痴だという自覚がはっきりとわかり、それがなんとも恥ずかしい。歌うことなんか大嫌いだと今でも思っています。
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■戦艦大和のプラモデルの悲劇 [私の昭和30年代]

■戦艦大和のプラモデルの悲劇

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

夏休みのこと、プラモデルを作るのが好きだった僕は、お小遣いをためて戦艦大和を買いました。
全長サイズは約40㎝位の当時としては大きなモデルで、喫水線から下は赤いプラスチック、それから上はグレーのプラスチックで出来ているために、面倒な塗装は要らないのが気に入りました。
45口径46cm3連装砲塔、60口径15.5cm3連装砲塔、40口径12.7cm連装高角砲、カタパルト2基などのパーツはひとつひとつ接着剤で取り付けなくてはならないので、なかなか手間のかかる作業でした。
別売りのモーターと電池を取り付けると自力で航行でき、舵も動くようになっていました。
このモーターと電池を設置する場所が、ちょうど艦の下半分の赤いプラスチックの部分になるのです。
この部分にはスクリューを回すギアも付いています。
電池とモーターはかなり重いので、この赤いプラスチックの部分とグレーの艦の上部を接着材で丁寧に接着すると、ようやく戦艦大和の勇姿が完成しました。
電池の出し入れとスイッチは、艦橋がはめ込み式になっていて、この部分を外す事で行うようになっています。
出来上がった所で家の流しに水をはって浮かべてみました。
『おおーっ、カッコイイ。』
試しにモーターのスイッチを入れてみました。しかし台所の流しではすぐに行き止まってしまいます。
そこで友達の家にある大きな金だらいに水を入れて、舵を一杯まで曲げました。こうすれば円を描くように走るはずです。
早速スイッチを入れて走行させてみたところ、大和の全長が長いせいで舵をいちばん曲げても金だらいの縁を船体がこすってしまいます。金だらいの縁をズリズリとこすって進む戦艦大和というのはなんとも様になりません。
そこで想い出したのは、近くの都立高校にある小さい使われていないプールでした。
このプールは15メートル位の長さで、幅は5~6メートル位のほどですが、周りをフェンスで囲ってあります。水は張ってはありますが手入れはまったくされていないので、雨水などで満水状態。しかもこけで緑色に見えます。カエルやメダカ、オタマジャクシやゲンゴロウなんかもいました。
夏休みのこととて誰も居ないので、数人の友達と普通に裏口から入ってフェンスを乗り越えました。
始めに、この戦艦大和をまっすぐに航行させてみたい、そしてから舵を曲げて円を描くように走らせようと思いました。
まずは直線に走らせるのに友達をプールの向こう端に待機してもらい、大和が向こう側についたらまたこちらに向けて往復走行させようという段取りで、友達一同固唾をのんで見守ります。
水は緑色でプールの底はまったく見えません。それがなんだか大海原みたいでなかなか期待出来そうでした。
期待は嫌でも高まります!
スイッチを入れるとスクリューが回転し始めます。電池も大丈夫だし、モーターも異常ありません。
僕は『よっしゃ』とばかりに気合いを入れて、水面に戦艦大和を浮かべました。
手を放すとスーッと波を立てて豪快に進んでいくではありませんか!
友達からも「カッコイイ」とか「スゲー」と声があがります。
我が戦艦大和はゆうゆうとプールの中程まで順調に進んで行きました。が、そこで突然止まってしまったのです!
『ええっ!?』一瞬何が起こったのかわかりませんでしたが、よく見ると赤い喫水線から下の部分が進みつつ沈んでいくのが見えました。どうやら上下を接着している部分が剥がれて、電池やモーターで重くなっている赤いプラスチックの部分が沈んでいったようです。後に残った戦艦大和の甲板から上はなすすべもなく浮かんでいました。
順調に滑るように航行していたのでショックは大きく、友達からも落胆のため息が聞こえました。
とにかく無事な上部だけでも回収しようと思いましたが、プールの真ん中まで来ているので短い棒では全然届きません。辺りをさがすと長い竹竿を見つけました。これで艦を引き寄せようとして延ばすとぎりぎり届きます。その時に竿が艦橋に触ってしまい、電池の出し入れの時に外れるようになっている部分がパカッとばかりに外れて、水の中に落ちてしまったのです。沈み行く上部艦橋をなすすべもなく見送るしかたありませんでした。ついで多分そこの空気で浮いていたのだと思うのですが、残りの甲板部分もあっけなく後を追うように沈んでいきました。
水面をカッコ良く航行した姿をかいま見ただけに、落胆の度合いは深いものがありました。しかも底も見えない汚いプールで船体の回収も出来ません。蝉だけが景気よく鳴いていた夏のことでした。

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■やましたきよし(山下清)さんが来た時 [私の昭和30年代]

■やましたきよし(山下清)さんが来た時

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

僕たちがまだ小学校の頃は、周囲にもちろん高い建物などはまったくなく、体育用具置き場のある校舎の二階の廊下から天気の良い日には、富士山がはっきりと見えました。空気もまだ澄んでいたのです。
クラスによっては教室からも富士山が見えたものでした。
そんな日に誰かが教室に駆け込んで来て「やましたきよしが来ているよ!」と興奮した声で言いました。
その声に数人の生徒が席を立ちました。僕もみんなの後を追ったのでした。
二階の廊下で富士山を真向かいに見て、ランニング姿に半ズボンの人が一生懸命に画用紙に向かっていました。
覗いても嫌な顔もしないで、黙々と一生懸命にスケッチをしています。
まだ途中のスケッチは、ただ風景を描いているだけなのに、街にはちゃんと人が住んで居る感じがして、富士山がそれを見守っているような気さえしたのでした。
この頃、山下清って有名な画家だとはまったく知りませんでした。
山下清は日本中を放浪していたことで知らていますが、まさかこの駒本小学校に来るなんて、なんとも意外中の意外のことでした。
後の裸の大将放浪記は、この画家の山下清をモデルに描いた人情テレビドラマでしたが(1980年から1997年にかけて制作:東阪企画・関西テレビ、フジテレビ系列の『花王名人劇場』→『花王ファミリースペシャル』のシリーズとして放映されました。芦屋雁之助主演で彼の代表作となりました。)実はこのテレビを見るまで、こんなに凄い人だとは思わなかったのです。
「ちぎり紙細工」の作品が有名なのですが、彼のスケッチをリアルタイムで見たと言うこと自体、それはなんとも貴重な体験だったと思います。
今だったらとても学校内に部外者が入ることなど出来ませんが、この頃はいたってオープンだったので可能だったのでしょう。
この時代、近所の人はみな顔見知りで、どこの家の子も同じように叱られたり拳固をもらったりしていました。
町中が子供を見守っている。あの頃はそういう人間らしい優しさが溢れていたような気がします。
その頃に出会った、やましたきよしさんが無心に絵を描いている姿を見て、絵は楽しんで描くものだと教わった気がします。

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■感激の天体ショー [私の昭和30年代]

■感激の天体ショー

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

小学生の時仲が良かった友達の家は比較的に裕福な家庭でした。彼の家に遊びに行くと、たいてい新しい何かがあるのです。
ある日その彼に呼ばれて家に遊びに行きました。夕食をご馳走になり夜を待ちました。さて今日は何を見せてくれるのだろうと期待が膨らみます。彼に促され庭に出ると、そこには天体望遠鏡(屈折望遠鏡)があったのです。
僕がまだ子供の頃は、天体望遠鏡なんて高値の花で、とてもサラリーマンの家庭では買ってもらえるものではありません。天体望遠鏡も凄いと思いましたが、感激はこのあとでした。
なにやら方角を調べて、天体望遠鏡を夜空に向けている彼が呼びます。そこで彼と交代してアイピース(接眼レンズ)を覗くと、なんと見えたのは土星でした。天体望遠鏡の視野の真ん中に、土星が捕らえられていて、ちゃんとあのリングまでくっきりと見えたのです。初めて見た惑星でした。気の遠くなるような距離を隔て、手の届くような所に見えるその素晴らしさは、今でも胸が熱くなります。神秘的で綺麗でした。
そのあとで見た木星も明るくこれまたすごく綺麗でした。
そして、低倍率にしてプレアデス星団を見ました。これは、おうし座の散開星団で日本名は「すばる」です。地球から遙か400光年の距離にあり、肉眼でも輝く5〜7個の星の集まりを見ることが出来るそうですが、天体望遠鏡を通してみた星団はもう神秘的としか言いようがない輝きで、思わずため息がでました。
今考えれば、当時より性能も良く安い天体望遠鏡が手に入りますが、あの時の感激は一生ものだと思います。今でもあの神秘な天体の様子を思い出すと心ときめくのでした。小学校の高学年の時の思い出です‥‥‥。














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■貸し自転車 [私の昭和30年代]

■貸し自転車

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

自転車に乗れるようになったのは小学生になってからだった。当時は東京の文京区のほぼ真ん中辺りに住んでいた。その頃は自転車を持っている子も少なく、自転車屋さんから貸し自転車を借りて乗り回していた。この貸し自転車は結構派手な色が塗ってあった。真っ赤、真っ黄、真っ青、真っ緑、真っ黒などがある。子供の頃は別に色など気にしていなかったのでどれでもよかった。これを1時間10円で貸してくれた。たいてい2時間は借りていた。
この自転車で5~6人の友達と不忍池まで行ったことがある。時には後楽園、今の東京ドームや小石川の植物園、さらには駒込に近い六義園あたりまでが行動範囲だった。しかしこういった所まで行くのは、子供では結構な冒険であり、普段は近所の公立高校のグラウンドで風を切ってぶっ飛ばしていた。
その公立高校はグラウンドが広く、校舎前に50メートルはある石ころだらけのグラウンドと、さらにそれよりやや整備された大きいトラックがあった。あと裏手に回るとテニスコートが2面あった。テニスコートで自転車に乗ると、守衛のおじさんに強烈に怒られた。しかし、なんで怒られたか判らない。後日、テニスグラウンドを整備している部員を見て納得した。大きなローラーでコートを懸命に整備している。「そうか、デコボコがあるとボールがちゃんと弾まない。それで自転車で走るとコートが荒れてしまうので、怒られたんだ」というわけだ。しかし、テニスコートは走っていて気持ちいいのは確かだ。初めて自転車に乗れるようになったのは、このテニスコートのおかげだった。
なので、もっぱらぶっ飛ばして遊んでいても怒られない、校舎前のグラウンドで遊んだ。その日も、貸し自転車を借りグラウンドに向かった。だが、その日借りた自転車はいつもよりサドルが低く乗りにくかった。なので、サドルをグルグルと少しずつ回して引っ張りサドルを高くした。みんなで平行に並んで速さを競ったり、西部劇みたいに自転車から他の自転車に飛び乗ったりして、それは楽しく遊んでいた。そのうちにサドルが下がってしまい、またグリグリと回して引っ張り高くした。自転車での体当たりゴッコをしている時に、それは起こった。ドンッ!と友達の自転車に体当たりした時、高くしていたサドルがそのショックで取れた!サドルが取れてパイプが剥き出しになる!気づいた時にはもう遅く、そこに座ってしまったのだ!「ウグッ!」パイプは丁度、お尻の穴とあれの中間を直撃!「ムグ~ッ!!」でだめ押しにこすれたのだった!思わず自転車から手を離して立ち上がり、その場でピョン!ピョン!と男の子特有の痛みに跳ね回った。幸いヒリヒリはするが、おかしな事にならなかった。この時、友達は誰も笑わなかった。ちゃんと集まって心配してくれたのだ。それ位ヤバそうな表情だったのだろう。
後日自転車を買って貰った。初めてのったのはこのグラウンドだった。気持ちよかった。

















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■ゴム跳び [私の昭和30年代]

■ゴム跳び

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

なわ跳びで思い出しましたが、ゴム跳びというのがありましたね。おもに女の子の遊びなんだけど僕たち男の子も加わりやりました。輪ゴムを集めて繋いでいき2~3メートル位にします。それをふたりで持ち、引っ張ります。そのピンと伸びたゴムを跳びます。始めはくるぶしの高さから始めて膝、腰とだんだん高くなって行きます。
女の子は下着が見えないように、下着の中にスカートをたくし入れて即席ブルマーにするのが定番でした。本当に女の子は凄いことを考えるなぁと感心します。だんだん高くなるにしたがって技を出します。高い所のゴムを跳ぶ時には片足先を振り上げてゴムに引っかけ、身体をクルッと回転させて跳びます。ゴムに足が届かないと出来ません。同じ年だと女子の方が背が高くて、ゴムが頭の高さだと自分の背より高く足が上げられないとまず跳べません。跳べないとゴム持ちと交代します。この遊びも輪ゴムが必要なだけで、まったくお金が掛からず、しかも楽しく遊べました。
ある日、助走をつけて自分の背の高さより足を上げて跳ぼうとしたとき、半ズボンの縫い目ビリッばかり裂けました。黒い半ズボンから白い下着が見えてしまい恥ずかしかったです。あの頃の女の子は、あっけらかんとして、下着にたくしこむ即席ブルマーからカモシカのような脚がすらりとのびていて、臆さずに男の子のようにゴムを跳ぶ姿が綺麗だと思いました。あの頃は「みんな生き生きしていたなぁ」と想いを馳せるのでした。


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■豆腐の角って痛いの? [私の昭和30年代]

■豆腐の角って痛いの?

これは僕の子供の頃の話。
『昭和30年代、僕はまだ小学生だった。』

寒いときは鍋が美味しいが、湯豆腐をやると思い出すことがある。
子供の時、朝ご飯の前にやらされるのが、鰹節をけずること。カンナみたいな鰹節削りで、シャコシャコと鰹節を削る。下手をすると鰹節が粉みたいになって下の引き出しにたまる。上手くいくとかんなくずみたいに削れる。これが意外に楽しくて上手く削れるように努力したものだ。鰹節が大きいときは危なげなく削れるが、ちびてくると慎重にやらないと指を削ってしまいそうで怖い。実際爪を削ってしまったことがあったが、指は無事だった。
あと、よくやらされたのが海苔をあぶることだった。炭の火鉢で焦がさないようにあぶるのだが、これも単純ながら技がいるので面白かった。ちゃんとあぶった海苔はパリパリしていて香りも良かった。
で、本題の豆腐であるが、母は結構気が短くて、僕がヘマをしたり、テストの成績が悪かったり、言いつけを守らなかったりすると必ず言われたのが-「豆腐のかどに頭ぶっつけて死んじまえ!」という啖呵(たんか)だった。今考えると凄いこと言われていたと思う。今ならさしずめイジメだと言われそうだが、子供の時はなんとも思わなかった。
しかし、想像はした。豆腐に頭をぶっつけると痛いのかなとか、木綿豆腐?絹ごし豆腐?どっちと本気で考えてしまった。なので、切った豆腐を箸で挟むときに崩さないように気をつけるようになった。おかげで崩れやすいものでもやんわりと箸を使うことが出来るようになった。それにしても「豆腐のかどに頭ぶっつけて死んじまえ!」という啖呵はすごいユニークな発想だな。
















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